光のつぼみ
その人を初めて見たのは、新入生歓迎会の日だった。
といっても、歓迎会でではない。その日の朝、高等部校舎の一階廊下に一人佇んでいる姿を、斜め後ろから眺めた、それだけのことだ。
彼女は、開いた窓から外を眺めていた。
その姿は美しく、一編の詩のようだった。
予感がした。
この人との出会いは、自分の人生に大きく関わる大事となろう、と。
その人の名前は、すぐに知れた。
福沢祐巳。紅薔薇のつぼみ。紅薔微さまの妹。
新入生歓迎会で、紅薔薇さまの隣に立って、お姉さまの補佐をしていた。
いくら高校からリリアンに入った私だって、高等部生徒会、山百合会のトップである三人の薔薇さま、そしてつぼみと呼ばれる妹たちの存在を、それまでまったく知らないわけではなかった。
積極的に情報を仕入れようとしなくとも、自然と耳に入ってくるクラスメイトたちの会話の断片から、何となく理解できてしまうものだった。
--クラスメイト。特に、松平瞳子を筆頭とする愉快な仲間たちの周辺は、いつでも騒がしかった。
自己紹介ではしゃぎ、薔薇さまの誰それがうちの教室から見える廊下を歩いたと言っては黄色い声をあげ、出席番号の当たり日といえば興奮し、果ては健康診断までもイべントにした。
そんな彼女たちが、他校から受験して入ってきた生徒たちを放っておくわけはない。「一緒にお弁当を食べましょう」に始まり、「お祈りを覚えるお手伝いをして差し上げましょうか」だの「わからないことがあったら遠慮なく聞いてね」だのと何かと世話をやいてくる。親切の押し売りは買わない主義の私は、早々に無視を決め込んだことで比較的すんなりとターゲットから外してもらえた。その上「細川可南子さんは、少し変わっていらっしゃるから」とのありかたいお言葉まで頂戴した。
私は、中学までずっと公立の共学校だった。父の浮気から発生した両親の離婚は私の心に大きな傷を残し、男がいなければどこでもいい、そう思って高校は女子校を選択した。その中でも超難関と言われたリリアンに照準を合わせたのは、中学時代のクラスメイトたちに「都立に落ちたから私立に行った」と言わせないためだ。私は、男と同じくらいに男に媚びる彼女たちが嫌いだった。
自分のことを「私」ではなく名前で呼び、語尾を甘く上げる。松平瞳子のそんな言葉の端々や、しなを作るような仕草が不快だったのは、教室にいる約半数の男たちの目を気にする元クラスメイトたちを思い出させるからに他ならない。だから、松平瞳子とそりが合わないのは、そういう理由だと、私はぼんやりと思っていた。
程なく梅雨の時期がやって来た。
ある日の朝、私は学校に向かうバスの中で、福沢祐巳さまの隣の席になるという思いがけない出来事に遭遇した。バス停で前方にいた私は気づかなかったが、祐巳さまは私の二人か三人後に並んでいたらしい。私は何も考えずにバスに乗車すると後方にある二人席に収まった。程なく、「失礼」と隣に着席したのが祐巳さまだった。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
私は勇気を振り絞って挨拶をした。
「ごきげんよう。相変わらずの天気ね」
声をかけられ慣れているのだろう。祐巳さまからは、気さくに挨拶が返ってきた。曇り空が憂鬱なのか、窓の外を見て小さくため息を吐く。
「雨、お嫌いですか」
「そういうわけではないけれど」
祐巳さまはそう言った後、すぐに笑顔を作って言った。
「湿気で髪の毛が撥ねちゃうのは苦手」
紅薔薇のつぼみなのに。まったくお高くとまっていないところが、この人の人気の秘密なのかもしれない、そう思った。
バスから降りるために立ち上がった時、祐巳さまは私を見て「もしかして三年生ですか」と焦ったように聞いた。座っていた時には気にも留めなかった私の背が思った以上に高かったので、上級生だと思ったらしい。
「いいえ。一年生です」
私は笑った。日頃から背の高さを指摘されるのはあまり好きではなかったけれど、その時はまったく嫌な気がしなかった。
それから数日経ったある日のこと、私は妙な場面を目撃した。
ミルクホールの前の通路だった。松平瞳子と祐巳さまが、口論している。いや、口論ではない。どちらかといえば、松平瞳子が一方的に祐巳さまを責めている、そんな感じだった。
内容まではわからない。何かが、松平瞳子の気に障った、そんな感じだった。しかし、祐巳さまは言われっぱなしではなかった。松平瞳子のことを真っ直ぐ見据え、浴びせかけられた言葉が途切れるのを待って、「あなたにそんなこと言われる筋合いはないわ」とキッパリと言った。
美しかった。
微かに震える唇。力のこもった目。人と争うことなど無縁で育ってきたような彼女が、逃げずに立ち向かう姿は、いじらしくも神々しくも見えた。何か大切な物を身体をはって守っている、そんなギリギリの美しさだった。
私は、祐巳さまを追い詰めた松平瞳子を憎々しく感じると同時に、彼女が滑稽で哀れに思えてきた。
私にはわかってしまったのだ。
私と松平瞳子はどこか似ている。心に抱えた暗い影を、受け入れることも払いのけることもできずにもがいている。
影は光を求めるものだ。だから松平瞳子の中の影も、敏感にそれを察知した。けれど光がそこにあるのに、手を伸ばすどころか、酷い言葉を投げつけてますます自分の身を遠くへ押しやってしまうなんて。
私は、そんな愚かしい真似はしない。光が恋しければ、自分から駆け寄っていけばいいのだ。
梅雨が明けて、ますます祐巳さまはまぶしく輝いていった。しばらく休んでいた紅薔薇さまが登校するようになったからだと誰かが言っていたけれど、私は髪の毛が撥ねない季節になったからだって勝手に解釈している。
祐巳さまは、誰かがいなければ輝けないなんて、そんな人ではない。祐巳さまは太陽なのだ。そうして、自らが光を発し、その光で月の私たちを照らしてくれなくてはいけない。
図書館の閲覧室で、つま先立ちで上の棚の本に手を伸ばしている祐巳さまを見つけた。
「取りますよ」
ヒョイと抜き取って手渡す。こういう時に、いつもは鬱陶しく感じる背の高さが重宝する。
「ありがとうございます。あいにく踏み台がどれも使用中で、助かりました」
祐巳さまは、私を見上げて言う。
「一年生です」
私は苦笑した。
「あ、そうなんだ」
「ええ」
祐巳さまはバスで隣り合わせただけの私のことなど、覚えていないのだった。
背が高くて髪の毛が長い人。その目立った特徴で、良いにつけ悪いにつけすぐに覚えられてしまう私が、彼女の記憶力からすっかりこぼれ落ちてしまっている。なぜだか、とても心地よかった。
「まだ手が届かない本がありましたら」
「じゃ、今の隣のお願いしていい?」
「もちろんです」
あと何回声をかけたら、私は一年生だと認識してもらえるのだろう。
名前を覚えてもらえるのは、いつの日だろう。
私は気長に待ち続ける。
それでいい。
銀杏並木のマリア像だって、まだきっと全校生徒の顔と名前を覚え切れていないだろうから。